浄土宗

浄土宗について 法然上人について

宗祖 法然上人

  法然上人は、今から800年以上前(1133年)に現在の岡山県に武士の子として生を受けられました。しかし、幼少のころ敵の夜討ちにより父を亡くし、そ の父の遺言に従い出家します。

  比叡山にて当時の仏教学問のすべてを習得した後、承安5年の3 月、恵心僧都の「往生要集」を読み、その教えにより中国は唐の時代の善導大師の「観経疏 散善義」に記されていた「一心専念の文(開宗の文)」によって浄土宗開宗に至ります。
  すなわち「一心専ら弥陀の名号を念じ、行住座臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」という文に阿弥陀如来の本願の意義を見出したのです。

  この時より以後、法然上人は叡山を下り、まず西山の広谷に専修念仏の実践者で あった遊蓮房を訪ねます。その念仏生活に感激し、東山の吉水におもむき、そこに草庵をむすび往生極楽の法門を説き、口称念仏を人々にすすめられる生活にはいられました。
  当時の仏教は、聖道門と呼ばれる各宗の教えが一般的でした。その教えは学問が ある者や、財力のある者に限られていましたが、上人の念仏のみ教えは、「いつでも」「どこでも」「誰にでも」行える念仏で、若男女の別なく、多くの人々が 集まり集団を形成しました。

  文治2年(1186年)、法然上人が 54 歳の時、洛北大原の勝林院にて、天台宗の顕真が発起して、他宗の僧と仏教の教えについて広く意見を交換をすることになりました。三論宗の明遍、法相宗の貞慶、天台宗の証真、東大寺の重源等、当代一流の僧が 集まりました。法然上人はその席で浄土念仏の法門が今の時代の多くの人々に適した教えであることを述べ、集まった各宗の僧に深い感銘を与えました。 これを後に大原談義といい、この頃から次第に念仏の教えが社会に広く受入れられてきたのです。

  建久元年(1190)には、先の重源の要請により、東大寺で浄土三部経の講説を行うなど積極的な伝道教化を進めました。当時、門弟には信空をはじめ、感西等がいましたが、この頃から証空、源智、弁長、明遍、熊谷直実などが入門します。

  文治5年(1189)には、時の摂政関白九条兼実公との交流がはじまり、建久9年 (1198)には兼実公の請いを受け、『選択本願念仏集』を記します。上人の門弟も次第に増え、念仏が京都をはじめとして、北陸、東海、西海にまで 広まり、従来の仏教教団からの圧迫が激しくなります。

  元久元年(1204)は比叡山延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主真性に訴え、翌2年(1205)には奈良興福寺の衆徒が奏状を捧げて念仏の禁断を朝廷に訴えています。このような時に、上人の弟子の住蓮、安楽が京都東山の鹿ヶ谷で六時礼讃法要をつとめたところ、あまり美しい声明に、多くの人が感銘を受け出家する者も出ました。その中に、後鳥羽上皇の熊野行幸の留守をあずかる院の女房が、無断で発 心出家するという事件が起ました。この事が後日上皇の耳に入り、住蓮、安楽は死罪。さらにその前後の事情もあっ て、その咎が師の法然上人まで及び、四国の讃岐へ流罪という事になったのです。時に上人75歳。

  しかしこの流罪は1年足らずで赦免になり、摂津の勝尾寺に入り、ここで5年の月日を送られます。 建暦元年(1211)11月入洛の宜旨が下り、20日慈円のはからいで東山大谷禅房に入いられ、翌年の正月25日お念仏をとなえつつ安らかに往生をとげられました。世寿80歳。
  それより2日前の23日、これまでの念仏の教えを簡潔にまとめられて弟子源智に授けられました。後に『一枚起請文』とよばれ、上人最後の御遺訓となりました。

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